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プラチナプリントとは
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  光。

 その青年は、まことに暗い目をして、私の前に現われた。若くしてパリに渡り、写真家のギイ・ブルダン氏のアシスタントをし、アンフォルメルの旗手といわれた画家、今井俊満氏のもとで働き、芸術としての写真を仕事にしたいと、自分の歩みを語った。話を聞きながら、私はアートという言葉を使わず、芸術という言葉で写真を語る増浦行仁という人間に、奇妙な感動を覚えた。その時、私の頭に想起された言葉は、「狂暴なルネッサンス人」というものだった。時代を間違えて生まれてきたと感じられた。聖においても、俗においても、ルネッサンスの時代人は、過激であり、過剰であったというのは、サヴォナローラの狂信や、カラヴァッジオの行状を見ればわかる。そうした一種の熱狂の時代には、多くの天才が生まれる。
しかし、それらの才能が開花し、評価を受けるためには、時代という背景が必要なのだ。時が味方しなければ、いかなる才能も世には出られないともいえる。そうした時代背景を一切無視して、芸術を語る彼の目の奥に、私は一条の光を見たような気がした。暗い目の奥にあるその光を、私は信じることにした。そうして、つき合ってみると、自分自身でどうしようもなく過剰、と語る人間的欲望の背後に、信じがたいほどの審美眼があることを私は知らされた。私を含めて、通常の人間が、知識と経験によって獲得する、たとえば美術作品に対する眼力というものを、彼は天性のものとして持っていた。ほんものと、にせものが、直感として区別できるらしかった。この審美眼を、マイヨール美術館のディナ・ベルニー女史も認めていることを知って、私は、彼にマイヨールを撮ることをすすめた。
8×10のカラーで撮影されたその作品群は、彼の年齢を考えれば信じがたいほどの完成度を持ち、私を感動させるには充分だった。撮影を許可したディナ・ベルニー女史も、その作品を評価し、マイヨール美術館の公式な本に採用された。しかし、それが日本という国のなかでその時に評価される可能性は、なかった。
 その後、私は「狂暴なルネッサンス人」にふさわしい、いささか手荒な方法で、彼を独立させた。独立後、彼は「ブルデルに捧ぐ」と題された写真展を行なった。そのブルデルの会場に入った瞬間、私はベートーベンと目が合った気がした。鳥肌が立った。ブレて、ブルデルのベートーベンとはわかりにくくなっているそのモノクロの大きな作品は、私にとってはまごうことなき、ベートーベンの肖像になっていた。その時に、私は彼がやがて、ロダンに到り、もし許されるならミケランジェロに挑戦するであろうことを確信した。
  それからまた時が経ち、1998年に、彼のブルデルの作品と、ロダンの作品が、フランス国立図書館に買い上げられたという知らせを聞いた。とくにロダンの地獄の門をモチーフにした作品は、高い評価を受けているということだった。ブレや回し、という通常写真にはあり得ない技術で、創造されたそれらの作品は、彼がまったくオリジナルな芸術性を写真の世界において開拓したことを示していた。
 ある日、彼は私に、2000年紀にあわせて、ミケランジェロの作品を撮りたいとの思いを打ちあけた。その協力を求められた時に、私は彼に、はじめて会った頃の約束を覚えているかとたずねた。その約束とは、単に有名な写真家としてでなく、写真作品を彼がいうところの芸術作品、私にほんとうの価値があると認めさせるものをつくった時には、私が使っていたオフィスをギャラリーにするというものだった。それはプロジェクトの資金づくりからはじめ、撮影し、その作品を芸術的価値のあるものとして万人に認めさせるだけの莫大なエネルギーを費やす覚悟があるのか、と問うのと同じ意味だった。彼は、プラチナ・プリントという答えを用意していた。それも、通常のプラチナに、パラジウムを使う現代の技法ではなく、今は失われた純プラチナによる古典技法を再発見するという。無謀に思えたが、それまでも彼はできるといったことを、時間をかけてでもやりとげてきた。そもそも、一介の日本人の写真家が、ミケランジェロの作品を正しい手順をへて撮影するということ自体が、無謀といえるほどのことだった。このプラチナ・プリントという答えによって、行為から結果としての作品までという、芸術というものの全体性を回復させるという意志も、また明確であった。ひとつの輪がとじられていくのを私は感じた。
 増浦行仁のミケランジェロ・プロジェクトはこうして始まった。多くの支援者や賛同者と出会うなかで、彼はこの取り組みが、すでに、自分だけのものではなくなっていることに気づいた。用意が進むなかで、彼は長く、撮影について沈黙していた。その沈黙の期間、彼がいかにミケランジェロと向かい合うかについて考え続けていたことを、私は知っている。いまある才能あるいは、その時の心のありようでは不充分であることを自覚している謙虚な写真家がそこにいた。やがて、彼は撮影をはじめた。その撮影姿勢は、ストロボをはじめ、人工的なものを排し、自分の目とフィルムの可能性を信じるという、最もプリミティブなものだった。写真を美しく加工する技術を排するということは、自分を裸にすることと同じである。その作品には、ミケランジェロだけでなく、自分の人間性すら写し込まれることになる。あえて、彼はその困難な道へと自分を押し出した。私が、そんな撮影手法を彼から聞いたのは、撮影をはじめて1年以上が経過した2001年の春、ある出来事の後だった。
 ローマのサンタマリア・ソプラ・ミネルバ教会で、撮影のために、通常の照明を消してもらい、ほとんど暗闇という環境で、その教会にある十字架を背負うイエス像にカメラを向けた時のことである。ファインダーをのぞいていた彼の目に、大理石のイエス像ではなく、生気を持ってたたずむイエスが見えたという。あわててファインダーから目を離すと、天井から一条の光が、イエス像の聖痕を示すようにその右手に射していたという。やがて、その光は、十字架を輝かせ後光のように背中に抜けていった。「奇跡」という言葉が彼の頭のなかに浮かび、その現場にいた神父もまた、「奇跡」という言葉を発し、祈りを捧げたという。感動などという人間的な意味での涙ではなく、崇高さのあまりに流れる涙をとめようともせず、彼はシャッターを押し続けたという。このことがあって、彼は、そのプリミティブな撮影手法に関して確信を持つことができた。
さらに同じ2月。ローマでモーゼの撮影をしていた時のことである。モーゼ像は通常では自然の光がまったく当たることのない教会の奥にある。彼が、その撮影をはじめると、光がやってきた。その光は、夕日が教会の壁に反射したものだったが、一瞬モーゼの目が光ったように見えたという。作品名で、「光の顔」とされているモーゼの顔、この額から髭のあたりにその光が当たっていることがわかる。さらに、よく見ると普通はあり得ないような光の当たり方をしていることに気がつく。現像中には、まるで内側から来ているような光だとモーゼの顔を見て感じたという。聖書によれば、シナイ山で神と対話した後、民衆のもとに降りてきたモーゼの顔は光を発していたとされている。
 このような光の顕現は、ミケランジェロに取り組む増浦行仁の目に、このあともう一度現われている。それは、作品名で「ゴルゴダ」と名づけた、フレスコバルディ家礼拝堂の木彫のイエスの十字架の作品を現像中のことである。ゴルゴダ4「十字架の奇跡」という作品の背景に、ネガでは見ることのできなかった3つの十字架の影が、印画紙の上に現われた。彼の記憶のどこを探っても、撮影現場でそれらの影を見たことはないし、影をつくるような光源もなかったという。聖書によれば、イエスの処刑の日、ゴルゴダの丘では、イエスのほか2名の罪人が十字架にかけられたことになっている。この背景にある3つの十字架の影は、まさにそのことを証言するかのように写っている。このように、増浦行仁の体験した光の顕現というべきことは、聖書の記述に対応しているのだ。
 この写真集で、私たちは、ルネッサンスの同時代人に「神の手」と呼ばれたミケランジェロの手がつくり出した作品の手ざわりを、手で触れるよりリアルに、目で触れることができる。そして、ミケランジェロという天才を媒介として、イエスの時代、あるいは聖書とそれ以前の時代の何かにまで触れることができる。すくなくとも、増浦行仁という写真芸術家の目によって、自分の目でみるよりも深く、ミケランジェロを見ることに、私たちは幸福を感じないわけにはいかない。彼は、その目と写真によってミケランジェロの手「神の手」に再び光を当てたのだ。
 増浦行仁。そのまことにルネッサンス的な才能の開花は同時に、多くの人々の胸のなかにある次の時代の扉が開かれることにつながることを、いま私は信じることができる。
 ひとりの鑑賞者として。ありがとう。
                             積 哲夫

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